「漢文読み下し」ほどダメなものはない

 日本人は古代に支那と交流するようになってから、漢籍を読むのに読み下しという方法を編み出して、それによって知識や文化を吸収してきました。それは支那の文語文が単語自体は難しくても文章の構造は単純だったおかげで、返り点や「てにをは」を加えることで擬似的な日本語にすることができたおかげです。

 しかし、これは外国語の学び方としては最低です。例えば英語の文章を読むとき「I am a boy」を「Iハboyナリ」という読み方で英語を勉強するのってありえません。ところが、古代日本人はそれを漢文という中国語の文章に対してやってしまった。そして、その後それを特に疑問に思わず、便利だからと使い続けました。

 それで正しく理解できていればまあいいかもしれないけれど、読み下しなどという手抜きをするせいで間違うこともあるわけです。

 例えば「春眠不覚暁」は、多くの場合「春眠暁を覚えず」と読み下します。で、かつてはどうだったか知りませんが、現在では「春は夜明けに気づかないほど寝坊しちゃう」的な意味で使っています。

 で、原文をその続きまで見ると、

春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少

です。孟浩然の詩ですね。

 これを読み下ではなく直訳すると

春、寝ていたら知らぬまに明け方だった、ところどころで鳥が鳴くのが聞こえる。
夜の間は風雨の音がしたけど、花はどれだけ落ちてしまっただろう。

という感じになります。

 「不覚」というのは「知らぬ間に」という意味です。夜の間風雨の音を聞いていたら眠ってしまって、知らぬ間に明け方になっていたというのがこの詩の正しい状況です。さて、ふっと起きたら明け方で、鳥の鳴き声が聞こえているという状況ははたして寝坊でしょうか?鳥がチュンチュン鳴いてる明け方は、寝坊どころかけっこう早起きじゃないですか?

 つまり「不覚」の意味を考えずただ「覚えず」なんて読み下しにしてしまった時点で「明け方を過ぎたのを気づかないほど寝坊した」という誤解が始まってしまったわけです。

 でもまあ、詩ならまだいいです。意味を取り違えて詩の情景を本来のものとまったく違うものとして理解してしまっていたとしても、誰にも迷惑はかかりません。

 ところが、鍼灸の世界で『黄帝内経』や『八十一難経』を読み下しで読んでわかったつもりになってる連中というのはちょっと問題です。臨床にタッチしない学者がわかったつもりになって偉そうなこと言うのは別に問題ないですけど、わかったつもりで臨床に携わるっていのはこれはダメです。

 私は支那の古典医書を読むときには、まず原文で読んで、分からないところは中国や台湾で買った現代中国語訳してあるものを読んで、それでも分からないときは解説部分を読みます。台湾で出版されているものには詳しく解説がついているものもあってとても役に立ちます。

 でも、そこまでしてそれでも分からないこともたまにはあります。だからこそ、読み下しなんていういいかげんな、インチキな読み方してるだけの連中が正しく理解できるはずはないだろうと確信できるのです。

 今論語の読み下しを音読するのがいいなどと言われていますが、私に言わせれば無駄でしかありません。音読させるなら百人一首や万葉集がいいと思いますし、論語を読ませるならちゃんと外国語として扱って日本語訳したもので理解させるのがいいと思います。